昭和41年01月17日 朝の御理解
この方の道は親切ひとつで助かる道と。その親切ひとつで助かると云う様な、親切とはどの様な、親切だろうか。皆親切心を、と言う物を皆が持ってるんですけれども、その親切心というのが、神様に通うとか、親切ひとつで助かるとか、又助けて頂けれるとか云う様な親切にならなければ私はおかげを頂かれん。言わば通り一遍の親切、それでは、本当な事じゃないと思うですね。
ある無学の女の先生が、お道の教師にお取立て頂いて、愈々学院生活を終えられてから、金光様にその事をお尋ねになったそうですね。私はいよいよ無学な者で御座いますし、徳も御座いませんが、これからお取次ぎの御用をさせて頂かなければならんのに、どういう心持ちにならせて頂いたら人が助かりましょうかと。時にそのまあ、お言葉が下がったと云う事です「親切ひとつあれば人が助かります」と仰ったそうです。
親切の心というのは誰にでもあるのです、けどもそれをです、よう出すか出さないかと云う事ですね。不親切な人がありますね本当に不親切な人があります。本当に実意丁寧に全てを大切にとこう云う様な信心をしておる人じゃろうかと云う位に不親切な人があります。それではね人が助かる所じゃありません。自分自身もそれでは助からんです。そんなら、親切な心というのは、その人にないかと言うとあるんです。
誰だって自分の子供が孫が可愛くないという者はないでしょう。それなんですから親切とは。だから誰にでもある筈です。子供を持ってみりゃあ分かるのです。はあ自分にもこういう親切があるんだ。信心とはそういう自分が子供に、孫に使う様な親切をです、あかの他人の誰彼にでも使えれる様になる事だと云う事を、ひとつ分からにゃいけません。そういう親切でなからなければです、神様に通う事もなからなければ、助かる、人が助かると云う事もなからなければ自分が助かると云う事も出来ません。
ただ同情、そう云う様なものは、私はお道の信心で言う親切ではないと思う、いわゆる親身なものでなからなければいけないと云う事。特に私はここに奉仕され、まあ私の手代わりをして下さる先生方にそれを申すんですけれども、親身がなからにゃ出来ません。私はここでお取次ぎをさして頂きます時に、成程お初穂は一人なら一人の場合があります。それでも私は5人くらいお届けする事があります。
その人一人の為に一つのお初穂で。その人が切実に、その人が思うておる事が私によう分かるんです。それはもう本当に、そうした特別の事でなからなければ、お届け帳と云う事は、その我が儘勝手には行きません。親身になってみなさい。昨日、夕方でした。ある人がこういうお届けをするのです、その人の里が商売をしております。同じ町内の方に品物を少し出してあげてる。しかも片一方もここに時々お参りをしますし、片一方もここのご信者さんなんです。
偶々こちらへ帰って参りましたら、その片一方の誰々さんが。もう金はまあ二万円あまりらしいですけれども、ガタの品物をやっておるばってん、もうそれこそ言を左右にしてです、しらごつ嘘ばっかり言うちから払わん。もうあげなやつはおらんもう取って取って取り上げにゃでけん。もうあそこ売っておる品物でん何でん持って来ると。と云う様なその事を言うから、○○さんあんたは、本当に今現在、家がおかげを受けておるというのも、本当に椛目の親先生の祈りのおかげじゃないのと助けても頂いた。
お商売もこげん順調になって来たと云う事も、おかげっちゅう事が分からんか。あの人とても信心しなさる方だし、とてもあんたに、とても若けもんのあんたに、嘘を言うてからでも断らんならんというのは、どげん術ないか分からんばいっち。そげなこつ言わずに、向こうがほんなら、大体は汚なか人とか、持っとったっちゃ払わんというのじゃない。本当に考えてみると何人もの子供さん達が、大学高校と言う風に行っておる。ご自分な失職しておられる。
考えてみれば考えて見る程、今あそこが、まあ難儀の峠じゃろうと思われる様な時だから。もうそれがうち、なからにゃどうにも出来んと言うのなら何じゃけれども。でなかならば待ってやりなさい。あんたと向こうの人が例えば、その顔でん会わせられんという風にして御座るときにはっさい、もうあれはもう良かがの、あんたげん都合の良か時にしてくれんのと、例えば向こうに嘘ば言わせる様な事があっちゃ出来んと。
向こうが嘘でん言うて断らんならんと言う前にこっちがそう言う気持ちになってあげんのちゅってその、申しておりますて、中々私の言う事聞きませんけれども、もう一遍帰らせて頂いたら、手紙でその事をこんこんと言うてやりたいと思うから、どうぞおかげを頂きます様にと云う事をお届けして帰ったんですけれども、私は親切とはそれだと思う。例えばあの人はお道の信者さん同士だから、金も貸してあげた。
ただそして後でです、あれが払わんのあれがくれんの、あれがしらごつばっかり言うのと言う様な事では、それは親切ではないと思う。私は本当の親切とはね、それは本当に返済をしなければならん時に返済が出来んなら、言わばそのどうもし様がないから嘘の一つも言わにゃでけんのだから、嘘を言わせる前にですね。あんたが都合のよか時でよかがのと、もうそれは今、私の中にどうにも出来んと云う訳じゃなかけん、からとに角あんたげん都合の良か時。
よかけんで心配しなさんなと、そこをいっちょ乗り越えてです、ただ貸してあげただけではなくてそこを乗り越えた心。それが私は親切だと思う。いわゆる親が子を思う切なる心。もしそれが自分の子供であったら、私はそう言わにゃ居られまいとこう思う。親切ひとつで人が助かると、言うのですから親切しとって自分が助からん筈ありませんです、それだけの親切の心が、誰彼の上にでも使えれる人にならなければいけません、信心さして頂くなら。親身な親身な人にならなきゃいけません。
と言うて、なら私がこう申したからというて、ならすぐ親切になれると云う訳にはいけませんもんね。だから自ずとです、そう云う様な心の出る、私もその人に申しました、私共本当にもう、まあ貧乏といやあ、根限りの貧乏させて頂いたが、本当にしらごつもこつ言うて、断りに行かにゃん時には、もうこげなじゅつなか事はなかと。私が今、私のここに何時も御理解の材料になる様な、そういう時にです。
もうあれはもうどんこん出来んごとなっとるけん、早よ取ってしまわなきゃいよいよ引っ掛ってしまうと言うて、矢のつけ火のつけ催促する人とですたい、もうそれは良かがのと、あんたが都合の良うなってから払うちくれんのと、と云う様な風な、態度で私に接してくれた方の事はもう何時まで経っても私が一生涯忘れんと私。その人の例えば子供になり孫になったっちゃです。
私はその子供に孫に、私はその事を思う感ずるだろうと私は、いやまた感じておるです私は、折角貸して貰ったのに、それをてんで、矢のつけ火のつけ、喧嘩腰で行っても取ってあげて取ってあげれなければ出来んと言われた人達の事はです、おかげで信心が出来たけれども、私の心の中にそういう温かいものとしてから何時までも残る事はないって。もう私自身そこを通らして頂いておるが、○○さん本当その事を手紙でよう言うてやってくれんのって、もういっちょそこん所をです。
豊かに大きゅう、ならせて頂いて、ならそのそちらの方の場合でも、立派な息子どんが、矢張り高校に何人も行きよる、大学にも行きよると言う様に、おかげ頂いて、行きよる事だけは間違いないのだから。全然引っ掛ってしまうっちゅう訳じゃないから、そこんところをです、もう何時でんよかがのっち、言うてうやれれる様なひとつ親切を、ひとつ、あんたげん、里の弟が使う様ないっちょ、おかげを頂いてくれと言うて、又その方の為に頼む様にして、私は昨日は申しました事で、御座いましたけれどもです、そういう心が私は親切だと思う。
貸してやっとるばってん払やせん、もう貸してやったと云う事が親切どん思うたら大間違て。その先、その人が払いが出家んならです、それが自分のなら、子供であり親身な者であったならばそれはそう言わにゃ居られまい。私は本当に信心さして頂いてですね、この親身のない人、親切のない人。もう絶対助からんですね、その人は。おかげは頂いても参りましょうけれどもね。
真実の助かりはないです、それでは。親切ひとつで人が助かると、と云う事はです、真実、親切ひとつで自分自身が助かればもっと私は助かると思うんです。何時もの事で御座いますけれども、私は本当に有難いと思うですね、神様は見通しなんですから、神様は聞き通しなんですから。
そういう神様を頂きながらお互い信心の稽古をさして頂いておるので御座いますから、自分の心の汚い心を神様に見抜かれたんではおかげにならんです。神様がお礼ば言いなさるごたる気のする人がある。私はこう言うもう私はあんたにお礼言おうごたるっちゅう時があります。そういう心をです、時々ではなくて何時もそれを持ち続けられる様な、私は稽古だと思う、信心とはね。
嘘を言うから、実意がないからと言うて腹かかずに、嘘でも言わにゃおられん実意を現そうと思うても現せない程に、難儀をしておる様な場合はです、それを本当に嘘は言わせんで済むくらいにです、こちらがもういっちょ、こちらが心の上におかげを頂かせて貰うたらです、その人がどんなに喜ぶか分かりません。その喜びはもうその人が恐らく一生、忘れる事の出来ん程の喜びでしょう。言わばそれは帰って来ん筈はない、それを神様がみそなはさん筈はありません。
てんでから貸してから返って罪つくっとる。親切で貸したばってんあの人は、払いもせん。罪ば作らんならんごたるとならもう初めから、いや貸さんがいい。神様が見通し聞き通しといやあ。昨夜内田さん所の、重子さんの婿の中島さん、今こちらへ帰って、今日また横浜の方へ帰ります。昨日、親子4人連れで丁度御祈念前に、いよいよ明日発たせて頂きますからと言うて、お届けに出てまいりました。ほいで、私、御神米を下げさして頂いてから御祈念さして頂きましたら。
「おおきなこころとながいめ」と頂きました。「おおきなこころとながいめ」というのはひらがなで、こう頂くんですね。中でその事を「大きな心と長い目」と、今日私が申しております、親切というのはです、この大きな心と長い目で見れれる、言わば、大きゅう長う心がならなければです、私ただ今申します様なこれは、事はいい親切は使えんのじゃないだろうかと思いますですね。あそこ子供さん達が、大きゅうなり御座るから、かたもきるものもおらん。
本当にこここそ親切の四女じゃろうと言う風にしてですね、大きな心にならなければです、長い目をもって見てあげなければです、何時でんよかがのと、あんたが都合んよかごとなってから、して下さい。私家も大体困っておるけれども、それけん、さあそれがなかにゃどうこうちゅう事はないとだから、あんたがでけてからでいいですばいちゅって、もう向こうに、うそを言わせん前に、言えれるような心というのは、大きな心と、長い目という信心が、心の中に育たなければ、私はおかげには、そうは親切にしょうと思うても、親切には出来ないと。
ほらもう見るも無残に自分に都合よかもんにばっかり親切にする。そげんとは絶対親切じゃないです。それはもう脇から見よっておかしいです。あれがもうほんなあの人に都合のよか、自分に都合のあれが利害関係があるもんじゃから、あげんようしよるとと云う事になるですね。どっちかっちゅうならです本当に私はもう本当にそこん所が人間ですから自分の為に成る様な人になら、大抵ほうからかしとってんかんまんです。
自分の身にはです、ちった損になるごたる風な人こそ、私は返って親切の心を使うて行く位な気持ちであって丁度よかと私は思うです。もう本当にもうあそこの先生ばっかりはもうお供えの出来る時ばっかりむごう言わっしゃると。もうお供えどんが出来んごとなると、もうけんもほろろっちゅうごたる先生がありますが、そういう先生の所では絶対ごひれいが立たんですから。これはもうもう絶対ですから。
だから金光様の先生だけの事じゃありません、お互いの上にだってそうでしょうが。お付き合いをしよったばってん、だんだん向こう難儀して来て、困んなさるなら、そういう人程本当に引き立ててあげようと言う様なです、心の人でなからなければおかげ頂かれんです。私でもそう思うですがね、本当にだんだんお供えでん出来んごとなって行きなさる人程、何か知らんけれども愈々その人に親身なものを感じます。私はおかげ頂くのはそれだと自分で何時も思う。
もうあげんとと付き合うと損のいく。もうそげんとにはもう実に冷淡極まる人がある。そげな事でおかげが頂ける筈がないじゃないですか。お互いが本当にお付き合いをさして頂くなら、親身を持ってお付き合いさせて頂きたい。いわゆる親切な心をいよいよ育てて行きたい。親切とは親が子を思う切なる心と。そういう切なる心があかの他人が、誰彼の上にでも使えれる様な私は人になりたい、ね。
その為に自分の心の中にいよいよ。大きな心と長い目の心の信心が身に付いて来る様なおかげを頂きたい。御祈念が終わって、御理解を頂き終わった後からです。重子さんがここへ出てまいりましてから、主人とそちらで、あのここでお風呂頂くというて、あちらでそのお風呂、あのう頂きに行ってから、その主人と2人で、そのう中島さんが言うそうです、もう何時もん事ばってん、親先生が見通しのには驚いてしもうたちゅってから、見てみれさっきから俺とお前が、そのあるその問題があったそうですたい。
それでその中島さんが言うた事がですたい。もうこげん時こそ大きな心にならんとじゃなかかって、お前ここんとここそ長い目で見てやらにゃいかんじゃないかちゅってから、ほんな、ああたが言うたばっかりじゃった。したらお書き下げが大きい心と長い目じゃっちゅう事じゃった。同じ自分が言うた通りの事がお書き下げじゃった、昨日は。もうそれで、勿論その事について昨日は御理解頂きましたからです。
信心で言う所の大きな心と、信心で言う所の長い目というのはです、今、中島さんが言うておるそれとは少しは違うけれどもです、一般で言う、それとは違うけれども、はあ、ここんところにいよいよ信心をおいていかにゃいけんのだなと云う事を思うたに違いないです。重子さんと2人でここに参って来る前に、あるひとつのその難儀な問題に対してですたい、中島さんが言うたばっかりの言葉がそれであった。こげん、時こそお前は心が大きな心にならにゃ、ね。
長い目で見てやれて、いうその事が、明日帰らして頂くという御神米のお書き下げを頂いたと云う事なんかはです、成程神様は見通しだ聞き通しだと云う事が分かるじゃないですか。その今お前が言うておる思うておる事をです、いよいよ信心でなして行くと云う事が、言わば信心ぞと云う事なんです。私共の言わば周辺にです、もうちっと親身にしなければ済まん人がありゃせんですか。親身にせなん、せなんじゃない。せにゃ済まんという人がありゃせんですか。
本当に親切ひとつで人が助かるとさえ仰るのですから、自分自身が助かる意味の上においてでも、親切な心というものが今欠けておると云う事が分からして頂いたらです、本気でひとつ親切にならせて頂かなければいけません。ただ、同情ぐらいな事をです、親切と思うたら大間違い。
後で貸してから文句言うごたる親切ならそれは親切じゃない、それでは信心で言う所の神様に通う様な、人が助かる様な自分も助かられる様な親切でないと云う事をです、分からして頂いて、いよいよその為に豊かな大きな心の頂けれる長い目で見れれる、ひとつ信心をです、身に付けていかなければならんと思うですね。
どうぞ。